第1章 配属

その朝、春野陽太は少しだけ早起きした。

初めて降り立つ駅。初めて歩くビル街。スーツ姿の人々に混じりながら、彼は慎重に歩を進めていた。足取りは重くも軽くもない。ただ、静かに浮き立つものが心の奥にあった。
「今日から社会人だ」
口に出してみても、実感はない。ただ、電車の窓に映る自分の顔が、どこか引き締まって見えた。

大学時代、陽太には“将来”と呼べるものがなかった。何かを極めたわけでもない。夢中になれるものがあったかと問われれば、曖昧な返事しか返せない。けれど、3年の夏、ひとつの偶然が彼の進路を決めた。

メーカー企業の経理部にインターンとして配属されたある日、彼は目の前で奇妙な画面を見た。
それは、請求書を作成するシステム。入力された数字が、まるで生命でも持つように、他の画面へ連動していった。

「これは何の仕組みですか?」
担当者はモニター越しに小さく笑った。
「SAPだよ。ERPって言われる、基幹システムの一種さ。」

ERP。Enterprise Resource Planning。
企業の業務すべてをひとつに束ね、データの流れを管理する巨大な仕組み。その言葉を初めて聞いたとき、陽太はどこかぞっとした。企業とは、合理的にできていると思っていた。だが実際には、紙の伝票、手書きのリスト、口頭の引き継ぎが交錯し、予測と直感と惰性で成り立っていた。

そこへ現れたSAPは、混沌を秩序へと変える道具に見えた。“人の手”に頼らずとも、ルールと仕組みが業務を前へ進める。その在り方に、陽太は初めて「システム」の美しさを感じた。

「配属先、SAP導入支援チームだって。」辞令を受け取ったとき、陽太は少し戸惑った。言葉だけは知っている。だが、理解しているとは言えない。(これは偶然か、それとも何かの巡り合わせなのか……)
そんな感傷を抱くには、彼はまだ若すぎた。

配属初日、オフィスビルの17階。会議室には既に何人かの社員が集まっていた。中央の席にいた男性が立ち上がり、柔らかく陽太に手を差し出した。
「君が春野くんか。プロジェクトマネージャーの中村だ。今日からよろしく。」
握手の手は大きく、どこか冷たかった。

その日の午後、陽太は初めて“クライアント常駐”という現場を体験する。無機質なフロア。整然と並んだPC。少しだけ硬い空気。そこで、彼の目に飛び込んできたのは、SAP GUIと呼ばれる、どこかレトロな画面だった。そこには、大学時代に見た、あのシステムの名残があった。そして、同時に、自分が足を踏み入れた“不可解な世界”の入口でもあった。

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